旅と言語。語学学習(バイリンガル教育)の考察。母国語(国語)の重要性
Hola
ブラジル編お疲れ様でした(笑)。今回は考察ブログ調でいきます。
旅行をはじめ海外にでると日本語を使う機会はとにかく少ない。一人旅なら尚更。世界標準とされている英語、どこにでも中国人街がある中国語と状況が大きく異なる。そういったことから幼児教育から英語を、という家庭も増えていると思うし、そんな時代の流れから有名人がご子息をインターナショナルスクールに通わせて、というニュースをきくようになってから結構経つ気がする。僕の住んでいるような田舎では一般的ではないけれど、ある程度の規模の都市だとインターナショナルスクールも珍しいものではないんだろう、と思う。僕自身は日本語含め会話で4ヶ国(読み書きいれるともう少し増える)使えるようになったが、両親は日本語しか話せないし、高校までも日本語教育のみの高校だった。
世界を旅してみてわかるが、日本は島国ということもあり日常生活で他言語に触れる機会が少ない。そういったことも影響してか日本人の他語学に対する感覚というのは、ヨーロッパ人などのそれと比べて鈍いというのは否めない気がする。
だからこそ、そういった外国語に小さなころから触れさせて感覚を養わせよう、というのは間違いではないしいいことだと思う。とかく音を聞き取る耳に関しては2歳くらいまでに聴きとるべき音の取捨選択をするらしい。
しかしながら問題となるのはある程度成長してからの母国語の選択というところにある。どちらも同時に十分なレベルで話せればいいじゃないか、とおもわれるだろうが、家で両親が完全な外国語を話し、学校等では日本語、もしくはその逆、という環境にあるのであれば問題はないだろうが、日本でそのような環境が揃っているのはほんの一握りの家庭だけだろう。
さらに、そのような環境だとしても子供の中には成長と共に一番の基礎となる母国語が設定されるのだ。言い換えればそれはもう外国語ではなく国語なのだ。そして僕がみてきた留学している日本人中心とした外国人の英語力は、この国語力と多いに関連があるように見えた。
アジア圏からくる語学留学生の英語レベルはスペイン語をはじめとするラテン系の言葉、やドイツ語圏の生徒と比べるとかな低いレベルからスタートする。
最初は会話のなかで文を構成することすらままならないことが多い。ただやはり1、2ヶ月もすると日常会話をこなせるレベルにはあがってくる生徒がほとんどである。
問題はそこからである。日常の意志疎通ができればいい、というのであればそれでいいと思う。でもやはり世間一般、毎日のニュースについて話すくらいの人付き合いとなるともう一段上の語学力が求められる。旅をする中でも、自国の文化や考え方等をたずねられることも多い。海外特に西洋人は文化や歴史が大好きである。(この辺りの話はまた別の機会にるとして)このての質問に対応するには、日常会話レベルでは心許ない。だが、母国語の国語力がない子にとってはその一段を超えられないことが多々ある。
僕は言語学者ではないのであくまでも自分の経験と推測だが、言葉には各単語毎にニュアンスというものがある。一番基本的なところでいうと人にお願いをするときにWillとWould でニュアンスが異なる。日本語にするとWill「していただけますか(してくれるだろう、という肯定的なニュアンス)」、「していただければありがたいんですが(婉曲的で無理かな、という思いもある)」。
だがそもそも日本語におけるこのニュアンスの違いがわからなければ、それを説明されたところでわからない。このWillとWouldにかんしてはWouldの方が丁寧な言い方ですむかもしれないが、更に難易度の高い表現となるともう大混乱だろう。
普段は英語を英語のまま処理して会話していても、論文を書いたりする時には、必ず母国語で文章の構成を考えている。そこから各言語で最適な表現、意訳をしていく。よって基礎部分が出来ていないと、文章自体がゴチャゴチャになる。
確かに国語の授業というものはいたく退屈なものではあった。みんな日本語しゃべれるのになんのためにやっているんだ、品詞、修飾語、わかってるよ、そんなもの。と言いたくなる気持ちもわかるが、感覚でわかっているものを理屈で理解することの大切さを外国語を学ぶときには痛感する。もちろん一部の天才そんなところをすっ飛ばすけれど。ほんの一握りの中の一握りだろう。日本において、僕自身が塾の講師をしていた頃も国語と英語の事例が顕著に見受けられた。
母国語を確立できずに、すべての言語が中途半端になってしまうというのはいかんせん勿体ない。小さなころから言葉に親しむことの楽しさを最大限に活かすためにも、国語に焦点をあてて語学教育について考えてみるのもひとつではないか。思っている。
To be continued